へんな人たちに攻撃されるから言葉を濁してるんだろうけど、長谷川さんまでへんな正しさにこだわる必要はないと思います
正しさは他人を攻撃するためだけのもの・正しくないことだけが人間に優しいんだって、言ってもいいんですよ
そもそも現実ではフィクションを好きな人の方が圧倒的に正しく生きてるのに、人生うまく行ってなくて八つ当たりしてるだけのフィクション嫌いに配慮する必要あるんですか?謎
ごめん!!!! 「正しさは他人を攻撃するためだけのもの」とは思っていないので、わたしからそういう発言を引き出すことはできません!!!! あとわたしはわたしの言葉をわたしの意志で選ぶので、仮にそう思っていたとしても他人に許可されて他人の期待に沿った言葉を発するのって嫌かも!!!! めっちゃごめん!!!! でもわたしに許可を与えられるのってわたしの理性だけだから!!!! 以下ちょっと真面目に話してるけど読まんでいいごめん!!!!



昨今のSNSを見ていると、一昔前の「ポリコレ棒」は、言葉こそ廃れたものの感覚としてはより強固になっていると感じます。みんなそれぞれに蓄積されたものがあって、他者の言葉を咀嚼することがどんどん難しくなっているのかもしれないな、と。それ自体は是非は別としてむべなるかなとも思います。

フィクションやそれに伴う企画などを取り巻くものにしても、決して社会と断絶したものでは有り得ません。不適切な描写や企画が批判されるのはむしろそちらのほうが健全だと思います。
他方で、そういった場面で「せっかく楽しかったのに水をさされた」と感じるのも自然なことだと思います。そのとき、自分のほうが正しかったり被害者だったりすることにしなくても大丈夫だと感じられるような「何か」が必要だけれど、その「何か」に一般性の高い答えはないのだろう、みたいなことを考えています。

もうすこし掘り下げると、「公式」と呼ばれるものにそのとき取ってほしい態度は、単に不適切であったことや不快にさせたことを謝罪するのではなく、(被害者に向けて理由を明確にした謝罪をするのは当然のこととして)そこでそのように感じてしまったファンにも寄り添うようなものだ、と思っています。単に「批判されたので取り下げました」つまり「“批判したひとたちのせいで”楽しいことがなくなってしまいました」というのではなく、「楽しいことが楽しいだけではないことについて、一緒に考えていこう」と思わせてくれるような「何か」を提示しないと、いろんな溝が深くなるのは避けられないだろうな〜と。
(もちろん被害者がその「何か」になる必要はないし、被害者に寄り添って一緒に怒ったり悲しんだりするひとがいるのも重要なことです。ぜんぶ並行して十分に存在していてくれ〜〜〜〜)(なんも足りてないからこそ……という話なのですが……)

おそらく送り主さんが読みたくないであろう理想的な話をすれば、マジョリティには自身の享受する特権について知る義務やマイノリティの言葉に耳を傾ける義務があり、それをしてこなかった過去は怠慢として指摘されるのは致し方ないことでしょう。
でも、「知らなかったこと」や「知ってもなんでそんなことしなきゃいけないのと思うこと」を「(本当はずっと前から被害者は同じ社会で一緒に生きていたけれど、一個人の視点としては)唐突に」「大勢から」責められてストレートに「自分、悪かったな〜〜〜〜めっちゃ勉強してめっちゃ謝ろ」と反省するのは当然超絶難しい。「なんでただ謝ってこれから勉強しますというだけのことができないの?」と言われる光景もまれに見るけれど、これが難しいということを否定するのってマジでなんにもならないんじゃないかな〜という気がします。

昨今の社会には「悪いことをした“ことになった”らおしまい」っぽい雰囲気があります。そうなると、「自分は悪くなくて自分のほうが正しくて自分こそ被害者だ」と持っていくしか選べる道がない気がしてしまいます。責めるだけ責めたらそのあとの変化なんて見ないひとが大多数だし。
もちろん許せないものを無理矢理に許す必要はありませんし、許せなさに寄り添うものはしばしば切実に必要で、そういうものが存在していてほしい一方、ひとたび何かしてしまったらもう何をしても一生許されない社会なら、反省も勉強も後悔も何もやる気になれないというひとも多いでしょう。それを責められるほどわたしはできた人間ではないし、みんなにそれぞれ必要な出会いがあってほしいと願うに留まります。
こういうムードがすぐに変わることは残念ながらないでしょう。それでもまあそこは、可能な限り歯を食いしばってやっていくしかないと思います。

この社会には差別的な構造が存在していて、自分がその一員であるというのは、フィクションとの向き合い方以前の事実です。社会には様々な場面があり、ひとはしばしばマジョリティで、しばしばマイノリティです。自分が常にいちばん弱くて正しいなんてことはない。人生がうまく行くかどうか、フィクションを愛せるかどうか、他者にやさしくいられるかどうか、そういう人生の岐路だってその構造の中にあります。それはもうシンプルに現実です。
それでも、その上で、みんながそれぞれの優先順位を持っていて、それぞれの切実さを抱えて生きています。それはしょっちゅう摩擦するし、衝突だってします。人権が優先されなければならない、というのは前提として、わたしにとって生命につながるほど切実で高い優先順位を持つものは、現代社会で「正しさ」の追い風を受けません。「正しさ」や「倫理」は土壇場でわたしをつなぎとめるものではないけれど、それでもこの社会に必要なものだし、わたしではない誰かの人生を救うもの、あるいはそれらがあれば絶たれなかった人生がきっとあったであろうものです。
これはフィクションでもそうで、わたしを救わない、けれど誰かのための物語は、たとえわたしと目が合わなくても愛しい。世界と他者に思いを馳せられるから。そういう試行を繰り返す中で不意にわたしの心のやわらかい部分にふれる物語が現れるし、わたしはその営み全体を愛しているので。

トーンポリシングは避けたいのですが、「正しさ」をめぐる話では語調の強い言葉が飛び交いがちです。それを読み続けるのがしんどいことはあるでしょう。先に述べたようにマジョリティはマイノリティの言葉に耳を傾ける義務があると言えますし、そういった言葉の話者の多くは「もう何度も繰り返したことなのに」という怒りを抱えています。そのようにしてようやく制度や常識に変化が見えてきた歴史を否定するのはよくないことでしょうが、生活を営むひとりの人間として、そういうものにずっと晒されていると、もっとよくない方向に気持ちが傾くかもしれないことを、わたしは否定できません。「べき」の話をすることもできるけど、人間の心は「べき」だけで動くわけではないので……。自分の好きなものを否定されたらショックだし、それをする人々を「敵」にしたほうが楽なんだけど、そこを踏ん張るタフネスがいつでも誰にもあるわけじゃない。同じことを言われるとしても、誰からいつどんなふうに言われたかで受け取り方は変わるし、時間が経ってあるときふと届くことだってある。それは物語も同じなんですけどね。物語って巡り合わせだから。

それはそれとして、作り手の高い倫理感や社会に訴えたい主張が伺えるようなフィクションも、素晴らしい物語だと感じれば当然だいすきだし、それを受け取って語るためには相応の自分でいなくてはならないとも思います。
そしてそれはそれとして、別に好きなものが悪くたっていいじゃん、とも思っています。「こんなものを好きなやつなんて」という否定も溢れかえっているけれど、あるひとにとって決定的な瑕疵が自分にとってもそうだとは限らないし、それでも愛しいということはあります。
まあこういうのって何もかもケースバイケースだし、受け止めるべき批判もあれば、「正しい」批判がある種の強硬さで物語にそぐわない要求をしていることもないとは言い切れないので、あんまり抽象的な話ばかりするのも難しいですね。


まとめとか特にないので、本を紹介して無理矢理終わります。もしよかったら読んでみてください。

〈公正(フェアネス)〉を乗りこなす: 正義の反対は別の正義か https://amzn.asia/d/hXOrUNO

差別はたいてい悪意のない人がする https://amzn.asia/d/8qb7bNZ

まとまらない言葉を生きる https://amzn.asia/d/hrTTTSc

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長谷川さより
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